東埼玉バプテスト教会




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愛は多くの罪をおおう



Tペテロ4:8「何よりもまず、互の愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである。」聖書の言葉はいつも現実的な勧めをします。「愛し合いなさい」という命令は愛し合うことが簡単に思えるような人間関係の中で勧められてはいないようです。同様に「多くの罪をおおう」と書いてあるということは、仲の悪さや意地悪や理不尽なことがそこにあるということを示しています。私たちの日常にも居心地の悪さや人間関係の悩みがあります。そんな私たちに、聖書の言葉は寄り添うように語りかけます。

正義が行われていないと感じる中で、私たちは人を断罪すること、非難することや復讐することを思いつきます。しかしそんな気持ちがあったとしても、何よりも重要なことは、熱心に愛し合うことだというのです。

こじれた関係性の中にあるのは、相手の罪であり、周囲の人の罪であり、同時に私の罪でもあります。正しい人であり続けられる人など、地域に、社会に、世界にいるでしょうか。程度の差があるように見えても、私たちはみな同じように罪人で、赦されることがなければ、誰かと共に生きることはできないのです。

多くの罪に気付く中で、愛することを決意するということは、人と共に生きていく決意に他なりません。そしてそれは、私たちがイエス・キリストが見せてくれた模範を知らなければ、決意することのないものです。しかしもし、イエスの愛にならうなら、私たちもイエスのように人の罪をおおい、人に生きる力を与えることに用いられる者とされるのです。

時にはあきれるほどひどいことが世の中にはたくさんあります。この世界の人々が少しでも平和に生きていくためには、愛で罪をおおう人が必要です。私たちの中に真の愛はありませんが、主なる神さまが愛を注いで下さって、多くの罪があるところに大きな愛を注ぎ出す一人にさせて下さいます。

Tヨハネ4:18「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。」完全な愛と呼べるものがあるとすれば、それは恐れ(例えば誰かに優しくしようとする時にその人を本当に大切にしているというよりは嫌われるのが怖いから、いい人だと思われたいから、一生懸命優しくしてしまう場合等)を感じさせる隙を持たない愛です。確かに私たちの日常には信用しきれない自分や他者がいるわけですが、この愛は、裏表なく、気持ちのむらなく、突然の激昂や嘲笑にすり替わる可能性なく、不安を全く感じさせない愛です。この愛は、十字架の死によって明らかになった、救い主イエスを通しての神の愛です。この愛を毎日受け取り続けることを通して、私たちの萎縮した心の不安がだんだん和らいでいくのです。

今日、やる気があってもなくても、いつものちゃんとした私であってもなくても、いつも通りの情けない私であってもなくても、救い主の優しい眼差しは変わることがありません。この愛の真剣さ・完全さを思う時に、立ち上がる力がわいてきます。それを体験する時、多くの罪があるところに大きな愛を注ぎ出す一人にされるに違いありません。