東埼玉バプテスト教会




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すべてに神の時がある



「信仰生活を続けているとよく分かるようになってくることの一つは、人生というものは、自分の計画よりも、神さまの計画が優先されるものだということです。伝道の書3:1-8「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生るるに時があり、死ぬるに時があり、・・・中略・・・戦うに時があり、和らぐに時がある」と進んだ後に、3:11a「神のなされることは皆その時にかなって美しい」に続いています。

口卒啄(そったく)の機」という言葉があります。"口卒"とは雛が孵化(ふか)しようとしているとき,雛が卵の内側からつつく音のこと。"啄"とは、母鳥が外からそれを外側からコツコツとつつく音のこと。雛鳥が卵から生まれてくる、ちょうどの時に、ちょうどのタイミングに、雛鳥は中からはつつく。ちょうどのタイミングに、母鳥は外からつつく。特に、雛鳥がまだ成長していない時、親鳥は外から殻をつついて無理やり破ることはしません。じっと中の雛の成長を待ち、内側からコツコツとつつく音を待っているのです。この両者のタイミングが一致していることが重要で、母鳥のサポートが早過ぎても、遅過ぎても、雛鳥は死んでしまうそうです。これがずれると雛は孵(かえ)らない。自然界には不思議な?啄の機があります。

私たちの人生、信仰生活に於いてもそうです。あの時、あの人と出会っていなければ・・・。あのタイミングであの出来事に遭遇していなければ・・・。あの時期にあの職場にいたからこそ・・・。あの瞬間にあの集まりが開催されていたからこそ・・・。人生にはまさに神さまの?啄の機が用意されています。信仰生活には神さまの時があります。

「神のなされることは皆その時にかなって美しい」というこの聖句で「運命的な出会い」や「神がかったタイミング」だけを経験した人が"神さまは素晴らしい"と賛美しているわけでは決してありません。この言葉には、1-8節のとても長い前置きがあります。誰ひとり、生まれたいから生まれるとか、いついつどこに生まれるとか、生まれる前に亡くなるとか、決めることはできません。また、愛したいのに憎み、争いたくないのに争いに巻き込まれるということもあります。私たち一人ひとりはそれぞれの人生の主人と思い込んでいます。にもかかわらず、「誕生」という私たちにとってとても大切なスタート地点を筆頭に、何一つ決めることはできません。聖書は人生の主人は、私たちではなく、物事の時を定め、支配されている創造主であると気づかせようとします。

「わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである」(黙示録22:13)とあります。この最初の時と最後の時を支配している「わたし」と言われるおかたが真の支配者です。「初めであり」とはこの「わたし」と呼ばれるかたが世界を造られたことを意味します。そして「終り」とは、世界が完成されることを意味します。そして"今"、この「わたし」と呼ばれているかたが、"世界を完成へと導いておられる"ことを意味します。この世界を造られた「神」が、創造も完成も、そして、今もすべてを支配し、導いておられます、その中で、私たちの小さな日常生活に於いても、神の時があり、それは美しいのです。今はその美しさに気づけなくても理解できなくても、大丈夫です。私たちは「心に永遠を思う思いを授けられ」(伝道3:11b)ているからです。