東埼玉バプテスト教会




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『ペスト』名言C(最終回)




ガラテヤ2:4「それは、忍び込んできたにせ兄弟らがいたので――彼らが忍び込んできたのは、キリスト・イエスにあって持っているわたしたちの自由をねらって、わたしたちを奴隷にするためであった。」
 5:1「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。」

『ペスト』は1947年に書かれたもので、ペストが蔓延し、閉鎖されてしまった都市―アルジェリアのオランで、病気に対するに十分な手立てもない中でペストに立ち向かう青年医師リウーの闘いを描いたもの。この状況が現在の私たちが置かれている状況と非常によく似ているために、今、よく読まれている。
このリウーのペストとの闘いの中で、重要な役割を果たすのが、多少謎めいて登場するタルーという人物。彼は民間保健隊を組織して、リウーの闘いを助け、後押ししていく。しかし、やがてペストは終息に向かうが、その中で、タルーはペストにかかり、リウーに看取られながら死んでいく。さらにリウーは、転地療養のためオランの外に出ていた妻にも、会うことなく、失う。それでもリウーは自暴自棄になったり絶望したりしない。「タルーは今夜、リウーとの友情を本当に生きる間もなく死んでしまった。タルーは自分でいったとおり、勝負に負けた。しかし、リウーは何を勝ち得たのか?彼が勝ち得たのは、ただ、ペストを知ったこと、それを忘れないこと、友情を知ったこと、そしてそれを忘れないこと、愛情を知ったこと、そしていつまでもそれを忘れないにちがいないということだ。ペストと生命の勝負で、人間が勝ち得たものは、認識と記憶だった。」「忘れない」と3回繰り返されている。つまり、見極めたものを決して忘れないで、記憶し続けること、それが残された者の責務だという認識にリウーは辿り着くのだ。
それは、戦い、友情、愛情、その経験と記憶を、しっかりと魂と心身に刻みこみ、決して忘れないという責任だ。体験したことを忘れずに次世代へ継承していく。しかし第二次世界大戦のこと、世界同時多発テロのこと、東日本大震災のこと、どれだけ人間はその過ちや失敗から学んできたか。どれだけその時に学んだことを継承してきたか(実は東日本大震災の後にもこの『ペスト』は売れました/当時の被災地の状況がロックダウン(都市封鎖)されていたかのようだったからです)。
物語の最後では、次のように締めくくられる。「ペスト菌は決して死ぬことも、消滅することもない。数十年間も、家具や布製品の中で眠りながら生き残り、寝室や地下倉庫やトランクやハンカチや紙束の中で忍耐強く待ち続ける。そして、おそらくいつの日か、人間に不幸と教えをもたらすために、ペストはネズミたちを目覚めさせ、どこか幸福な町で死なせるために送りこむのである。」見極めたものを決して忘れないで、記憶し続けること、それが残された者の責務なのに、人間はいずれまた忘れていく。こうして物語は再び最初に戻り、禍は繰り返されるだろう。ということがここで暗示されている。「決して死ぬことも、消滅することもない」のは、疫病や自然災害等はもちろんのこと、戦争をはじめとする人災、不条理、そして何よりも、人間から自由を奪い、人間に死と不幸をもたらす罪の象徴とも考えられる。
幸いにして私たちの主イエス・キリストが、その十字架の死と復活によって、罪に対しても死に対しても完全に勝利して下さった。私たちは既に魂の救いのあずかっているのだ。その回心の体験を私たちは決して忘れない。忘れずに記憶にとどめ、分かち合っていく、それが私たち信仰者の責任だ。

Tコリント15:25-26「なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。最後の敵として滅ぼされるのが、死である。」
Tヨハネ1:1-3「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について――このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである――すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。」