東埼玉バプテスト教会




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『ペスト』名言B



ガラテヤ2:4「それは、忍び込んできたにせ兄弟らがいたので――彼らが忍び込んできたのは、キリスト・イエスにあって持っているわたしたちの自由をねらって、わたしたちを奴隷にするためであった。」、5:1「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。」

コロナと共存する世界をいかに生きるかが問われている中で、フランスのカミュの小説『ペスト』が読み直されています。小説では、ペストと闘う医師リウーを中心に、様々な市民が描かれています。ボランティアに参加する人々から、閉鎖された港町から違法な手段で脱出を試みる者、さらには社会の混乱を歓迎する犯罪者まで登場します。
「ペストという、未来も、移動も、議論も消し去ってしまうものを、どうして考えることができただろうか。人々は自分が自由だと信じていたが、天災が存在するかぎり、誰も自由にはなれないのだ。」カミュは無神論者でしたが、だからと言って、人間中心主義(ヒューマニズム)に立っていたわけではなく、人間があらゆるものをコントロールすることができると考えていたわけではありませんでした。そもそも「天災」という言葉の中に、人間の限界が示されています。つまり人間がどんなに万能であったとしても、どんなに知恵や技術を得ていたとしても、あらゆるもの、特にペストのような天災に完全に対応できるわけではないという世界観、人間観です。天災によって人間は自らの不自由さを極限状態で思い知らされことになりました。それに対して人間がどこまで自由を得ることができるか、自由であり得るかと挑戦する人たちの物語、それが小説作品としての『ペスト』とも言えます。
「ペストがわが市民に最初にもたらしたものは、追放状態だった。」町全体が丸ごと封鎖され、隔離された時、町の人々は追放状態だったというのは非常に生々しい現実の描写です。患者やその家族・関係者という直接の被害者・当事者だけではなく、他の大多数の人々もまた、安定的な日常生活から追放と隔離の状態に置かれるという感覚です。
コロナだけではなく、地震・水害等の自然災害が起きる時、私たち人間の限界に直面します。あらゆるものを治めているようで、人間には治めきれないものがある。創造者の前に私たちは被造物に過ぎないことを確認します。例えば、コロナに対する完全な対策を私たちは依然として手にしていません。何が効果的で、何が効果的ではないのか、まだ解明されていません。それでも不用意・不用心なままで良いはずはなく、対応をせざるを得ない状態です。コロナの影響から完全に自由になっている人、なり得る人はどこにもいません。さらには、私たちの人生は、生活はこのままで良いのか?という問いかけを多くの人々に投げかけていて、それもまたカミュのいうところの追放状態かも知れません。このコロナ禍で連帯・協力・一致の重要性を再認識する一方で、それが簡単ではないこと、なかなか単純な他者の助けを期待できなくなっているという現実もあります。
では私たちには望みがないのか、この不自由さが際立つ世界に追いやられているかのような状態で、息を潜めて生きていくしかないのか。そんなことはありません。私たちはキリストによって罪の奴隷状態から解放され、あらゆるものから解放されている完全な自由人です。キリスト以外の別のもの(例えばコロナ)を主人に置くことはできない、置くべきではない神の子です。もちろんそれは浮き世離れした人生を生きることを意味していません。むしろ全く逆です。この不自由な世界の中で、キリストにある自由を得ている者として、積極的に共感をもって他者に仕え、連帯していく。その自由の恵みを、生き方で現していく。それが神の栄光を現すことに直結していきます。

詩篇119:45 「わたしはあなたのさとしを求めたので、自由に歩むことができます。」

ヨハネ8:31,32,36 「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。」「真理は、あなたがたに自由を得させる。」「だから、もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである。」