東埼玉バプテスト教会




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『 ペスト 』名言@



ローマ5:5「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」

コロナ後の世界、コロナと共存する世界をいかに生きるかが問われている中で、20世紀のフランスのノーベル賞作家アルベール・カミュの小説『ペスト』が読み直されています。
この小説の舞台設定は1940年代のアルジェリア(フランス植民地下)、黒死病と恐れられた感染症ペストが発生したオランという港町です。ここで隔離された市民が不条理・災厄のシンボルであるペストに抗う群像劇です。カミュは信仰者ではありませんが、神や信仰・聖書を全否定しているわけではなく(誤解は散見されますが)、むしろ信仰者の立場を認めながら、別の立ち位置にいる自分の思想を、登場人物たちに語らせています。そこに見られる真理について、特に私が共感し、御言を思いめぐらすきっかけになったいくつかの台詞・言葉を何回かに分けてご紹介します。その第1回です。

「市民たちは足並みを合わせ、災厄にいわば適応していった。というのも、それ以外にやり方がなかったからだ。・・・鋭い痛みはもう感じていなかった。・・・それこそがまさに不幸なのだ・・・絶望に慣れることは、絶望そのものより悪いのだ。」主人公の医師リウーの言葉です。この都市封鎖された町の人々の集団心理を見事に分析しています。ペストが人々から「愛の能力と、友情の能力さえも奪ってしまったのだ。なぜなら、愛はいくらかの未来への期待を必要とするものだからだ。しかし、我々にはもはやその瞬間その瞬間しか存在していなかった」というのです。つまり人々の中には、絶望から脱しようという気力がなくなり、ただただ現在のその瞬間だけを生きる、時間の囚人になっていたのです。

これはまさに現在のコロナから来る恐れと不安に満ちている世界の様相に通じるものがあるのではないでしょうか。コロナに慣れてしまって、絶望に慣れてしまって、徐々に未来に希望を持てなくなっていく。感覚も霊性も麻痺して、自分自身は無気力、他者に対しては無関心、世界に対しては無感動になっていく。言わばコロナの殻に自ら閉じこもるようにして、息を潜めて生きていく。生きているはずなのに死んでいるような、目を開けているのに眠っているような、永遠にずっと続くかに思われる息が詰まりそうな停滞状態。非常事態宣言の解除は迫っていますが、これがコロナ後の始まり、あるいはコロナ収束を意味はしていないことを誰もが知っています。

しかし私たちは信仰者、また信仰を持つことができます。信仰とは単なる理念ではありません。具体的な生き方であり、実際的な現実的な行いを伴います。その根底にあるのは、主なる神からいただいた新しい命、またその神のために生きるという人生の目的です。「新しい生活様式」という言葉が盛んに用いられ始めています。厚生労働省もホームページ等で「新型コロナウイルスを想定した『新しい生活様式』を具体的にイメージいただけるよう、今後、日常生活の中で取り入れていただきたい実践例をお示しいたします」と訴えています。確かにその実践例は理に適っていて私たちが注意するべきものを含んでいます。しかしそもそも私たちの人生の目的はどこにあるのか、私たちはどこに向かっているのか、私たちの行動原理や動機は何か、それを確認することなしに、「新しい生活様式」に生きようとしても、そこには真の希望はありません。絶望に慣れてしまう一手段に過ぎません。
しかし私たちはこのコロナという患難からも生み出される真の希望を知ることができます。コロナを妨げにするより助けにして、コロナを通して主なる神が私たちに下さろうとしているものを、しっかり受け取っていきましょう。その中核にあるものが希望です。

ローマ5:2-4「わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。」

ローマ9:33「『見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、さまたげの岩を置く。それにより頼む者は、失望に終ることがない』と書いてあるとおりである。」