『 美しく老いる 』
日本でも上智大学の学長等を務めて生活していたことのあるドイツ人のヘルマン・ホイヴェルス神父が、ドイツに帰国後、友人から贈られた「最上のわざ」という詩がその著作の中で紹介されています。 「最上のわざ」 この世の最上のわざは何? 楽しい心で年をとり、 働きたいけれども休み、 しゃべりたいけれども黙り、 失望しそうな時に希望し、 従順に平静に、おのれの十字架を担う。 若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、 ねたまず、 人のために働くよりも、 謙虚に人の世話になり、 弱って、もはや人のために役立たずとも、 親切で柔和であること。 老いの重荷は神の賜物、 古びた心に、これで最後の磨きをかける。 真の故郷に行くために。 己をこの世につなぐ鎖を少しずつ外していくのは、 まことにえらい仕事。 こうして、何もできなくなれば、 それを謙虚に承諾するのだ。 神は最後に、一番よい仕事を残して下さる。 それは祈りだ。 手は何もできない。 けれども最後まで合掌できる。 愛するすべての人の上に、神の恵みを求めるために。 すべてをなし終えたら、 臨終の床に神の声を聞くだろう。 『来たれ、我が友よ。我 汝を見捨てじ。』と。 「美しく老いる」という言葉がありますが、これはまさにそういう風に年を重ねた方の告白です。私たちも、このように年をとれたらと願います。 「しらがは栄えの冠である、正しく生きることによってそれが得られる。」(箴言16:31)、「主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。」(ミカ6:8) 正しく歩むとは、私たちを造られた神と共に歩むこと、その時、私たちは美しく年を重ねていくことができます。神さまは、私たちがどんな状態であってもそのままに受け入れ、赦し愛して下さる方です。しかし、イエス・キリストは私たちの弱さを全部ご自身が担って、私の身代わりに十字架にかかって下さいましたので、神さまは私を赦し、受けいれ、愛することができます。 この方を信じて歩む時、今までとは違う新しい生き方が可能になります。あれもこれもできなくなり失敗ばかりの自分、しかしそうであっても神さまはそのままに愛し受け入れて下さっていることが分かれば、ひがみやねたみは出てきません。かえって心から「ありがとう」と言うことができます。 "老いの重荷は神の賜物"それは自分が神さまの前に価値ある者として受けいれられていると知ることから来る気づきです。この神さまが心に住んで下さっている時、たとえ私たちの肉体は衰えていくとしても、内側から日々新しくされる命に生きることができるのです。この命の中に豊かに生き、美しい老いを迎えていきたいものです。 「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。」(Uコリント4:16) |