東埼玉バプテスト教会




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【クリスマスメッセージ】神の子を迎える場所



神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。
それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。
ここに愛がある。(ヨハネの第一の手紙4章9〜10節)

クリスマス、おめでとうございます。

あるラジオパーソナリティーが「お盆が終わったら、もう年末」と言っていたのですが、確かに、いわゆるキリスト教国ではない私たちの国でも、早ければ晩夏、あるいは10月ごろからクリスマスを意識し始めるのが普通になってきているのかもしれません。その分、クリスマスに関する情報もあふれかえっていて(クリスマスのお祝いは2千年の歴史があるという一面もありますが)、シンボル、アイテム、要素、準備など、いろいろなものが積み重なり、クリスマスの本来の意味が見えにくくなっているように感じます。それらを取り除いていったらどうなるでしょうか。

私のパソコンでグーグル検索すると、予測変換機能で、次候補として、ケーキ、プレゼント、ソング、マーケット、コフレ、ディナーが出てきました(恥ずかしながら「コフレ」という言葉は今回初めて知りました、汗)。その他にも、ツリー、リース、イルミネーション、サンタクロースなど、クリスマスに関わるさまざまなものを挙げることができますが、2千年前の最初のクリスマスにあったものと言えば、残るものはプレゼントとソングぐらいになるでしょうか。

イエスが誕生したとき、東から来た博士たちが黄金・乳香・没薬(もつやく)という貴重で高価な贈り物をささげて拝んだという聖書の記事に、クリスマスプレゼントの起源を見ることができます。しかし、さらにさかのぼって、イエスがこの世界の片隅のようなベツレヘムで生まれたことこそが、さらにその先駆け、クリスマスプレゼントの始まりです。このプレゼントは実はあなたへの贈り物なのです。イエスは、あなたの救い主(キリスト)として神から贈られた方だからです。

私は小学生の頃、自分で両親に願って、クリスマスプレゼントとして、ある年は将棋の駒と脚付きの盤を、また別の年は漢和辞典を買ってもらいました。「そんなの欲しくないよ」「他に欲しいものがいっぱいあるだろうに、どうして?」と、同級生には不思議がられましたが、その時の私にはとても大切で必要なものでした。

今、あなたが本当に必要としているものは一体何ですか。冒頭の聖書の言葉に、「彼によってわたしたちを生きるようにして下さった」とありましたが、私たちが本当の意味で人として、神に造られた者として生きるために必要なもの、あなたはそれを手にしていますか。

私の大好きな絵本で、友人やその子どもたちに贈らせていただく本の一つに『Life ライフ』(くすのき・しげのり作、松本春野絵、瑞雲舎、2015年)という本があります。一人のおばあさんの物語を軸にして、「ライフ」というお店に、代わる代わるさまざまな登場人物が訪れる設定になっていて、その中でおばあさんは慰めを体験します。登場人物たちは、それぞれが大切に使っていたものをその「ライフ」に置いていき、代わりに別のものを持ち帰っていきます。特におばあさんが物語の冒頭部分に持ち込む、亡くなったおじいさんが用意していた花の種が、次々に持ち帰られ、さまざまなものに代わっていき、それが巡り巡ってもう一度おばあさんのところに・・・。おじいさんの花の種もライフ、登場人物たちが置いていき、持ち帰るものも一つ一つがライフ、つまり大切な命であり、尊い時間であり、生活の分身のようなものたちです。一つのライフ・命がもたらすものの豊かさを、この物語は教えてくれます。

イエスを個人的に救い主として知るとき、私たちは永遠の命を手にします。それだけではありません。そこには、神の子としての立場、罪の赦(ゆる)し、本当の生きがい、本当の自分を知り受容すること、無から有が生み出されるダイナミックな命、将来と死後への確かな希望など、イエスという一人の命からたくさんの豊かな恵みを、次から次へと知っていくことになるのです。

ラルフ・エマーソンという19世紀の米国の思想家は、「すべての壁は扉である。そして、その鍵はあなたの手にある」と言っていますが、イエスはあなたの心の扉を打ち破って入り込んでくるようなお方ではありません。また、壁と思っていたものが実は扉かもしれません。いずれにしても、その扉を開く鍵はあなたにあり、一度その扉が開かれると、それは次々にあなたに訪れる祝福の扉に変わります。

クリスマスの物語の中で、聖書には「客間には彼ら(ヨセフ・マリヤ夫婦)のいる余地がなかった」とあります。この「客間」という言葉は、「宿る所」「宿屋」「部屋」と訳せる言葉ですが、どのように訳してもはっきりしているのは、そこには彼らのいる場所がなかったということです。マリヤが身ごもって子を産もうとしていた世界で最初のクリスマスの日、幾つもの宿屋がこの夫婦には部屋がないと戸を閉めたのかもしれません。そして、家畜小屋でイエスが誕生したのです。

では、あったものは何でしょうか。飼葉おけ。そして、それが置かれていた場所。そこはおそらくは臭くて汚い家畜小屋。せっかくヨセフとマリヤは自分たちの町へ帰って来たというのに、なぜいる場所がなかったのでしょうか。宿が予約でいっぱいだったのでしょうか。2人が頼んでも、宿屋の人たちは自分たちの仕事に夢中でかまっていられなかったのでしょうか。お腹が大きな人を見ても、見て見ぬふりをしたのでしょうか。栄光に満ちた神の子イエス・キリストの誕生、クリスマスの中心はこのイエスの誕生です。しかし、肝心の神の子を迎える場所はありませんでした。

私たちはどうでしょうか。ケーキがあり、ツリーがあり、おいしいごちそうもあるかもしれません。しかし、イエス・キリストをお迎えする場所はあるでしょうか。

私がこのシーズンに初めて知ったクリスマスソング「神のひとりご」(作詞・作曲:土井康司)の歌詞を紹介します。

                     神のひとりごキリスト
                     我らのうちに生まれた
                      誰も知らないある夜
                       ひそかに生まれた

                   私の心の馬小屋の片隅を
             選んでキリストこの世に生まれた

今日、イエスはあなたの心の部屋を選んで、その扉をたたいています。今までは忙しくて、そのことに気付かなかったかもしれません。「忙」という漢字は、心を亡くすと書きます。イエスを迎え入れるはずのあなたの心の部屋は、どこかに行ってしまい、なくなっていたかもしれません。その部屋を取り戻し、あなたに届けられている、神からのプレゼント、イエス・キリストをあなたも受け取りませんか。今、それぞれの場所で心を開いてこの方を迎え入れるとき、イエスはあなたの心に本当のクリスマスの感謝を、神に愛されている、赦されている、生かされているという喜びをもたらしてくれます。