東埼玉バプテスト教会




前 ←戻る→  次

『救いの達成』



ピリピ2:12-13  わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。(口語訳)
同   愛する皆さん。私がそちらにいた時、あなたがたはいつも、私の教えに従順に従ってくれました。離れている今はなおさら、しっかりしてください。深い尊敬の思いをこめて神に従い、神に喜ばれないことからは手を引きなさい。神は人の心に働きかけて、従おうとする思いを起こさせ、神が望まれる行いができるように助けてくださるのです。(リビングバイブル訳)
「いつも従順で」「いっそう従順でいて」・・・ピリピ2:8にあるイエス・キリストの「従う」という言葉からつながっています。イエスさまは神の身分であられたのに、ご自身を卑しくされて人の姿を取り、死にまでも、実に十字架の死にまでも父なる神に従順でありました。父なる神を選び取るために、ご自分の全てを捨てられました。同じように、私たちがキリストを取るために自分の全てを捨てていくのが、信仰です。
従順という言葉は、ちょうど子どもが父親に従うように、自分のしたいこと、自分の考えていることはあるけれども、ただ父親が言ったからという理由だけで、その権威に自分に意志を合わせることです。神の福音を信じるという行為はこの従順に基づいています。「わたしたちは、その御名のために、すべての異邦人を信仰の従順に至らせるようにと、彼によって恵みと使徒の務とを受けたのであり」(ローマ1:5)。イエスさまを救い主として信じて受け入れるということには、従順な心が必要です。
つまり福音を信じた時から私たち信仰者は従順な生活を始めたのですが、その中で主がご自分の救いの達成(実現・完成)の働きを行ってくださいます。「確かに、この人を私は救ったのだ」という証拠、その実を、神さまはその信仰者の人生の中に結ぼうとされます。神が私たちの思いや意志に働きかけ、そのことに私たちが従順になっている時に、確かに神が喜ばれるとおりの姿に変わっていくのです。その行き着く先はピリピ2:15「責められるところのない純真な者」「傷のない神の子」です。聖霊の力によってキリストの似姿に変えられていく、その過程・プロセスをパウロは「救の達成」「救いを達成する」と表現しました。
さらに、この箇所から大切なのは「あなたがたのうちに」と複数形になっていることです。あなたという個人ではなく、あなたがたという共同体の中で始まったことだということです。つまり神の救いというのは、教会という神の共同体の中で発展します。個人修養ではなく、神の家族の中で展開されていくものだ、ということです。
したがって、互いの関係の中で主が良い働きをして下さっていて、そこにいかに私たちが、そのキリストの体の一部分として相互に関わり合っているのか、というダイナミックな流れの中にいることができるか、ということが私たち個人と教会の成長に直結しているのです。私たちは共同体として神の救いに関わっており、自分のしていることが他者に影響を与えるということを心得ていたいものです。
12節「自分の救いの達成」というのも、個人の救いもありますが、それ以上に私たちの共同体としての救い、つまり教会がキリストの来臨によって携挙されることを含めたところの救いであることが分かります。私たちが神の救いを考える時に「ここにいる仲間が、私たちが、神の救いという壮大な計画の一部にされていて、完成の時には共に携挙に預かるのだ」という意識があるでしょうか。
「達成」するという言葉ですが、これだと救いを何か自分の行いで完成させなければいけないのか、というように聞こえるかもしれません。決してそうではありません。特に13節(リビングバイブル訳が見事です)を見ますと自ずと分かります。「神は人の心に働きかけて、従おうとする思いを起こさせ、神が望まれる行いができるように助けてくださる」。神が私たちの中で働いて下さっているので、その中に留まって従順でいることが、「救の達成」になるということです。主が始められて、主が前進させて下さり、主が完成させて下さいます(ピリピ1:5-6)。「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神」によって、私たちの内に一つの願い、意志が与えられます。その願い、意志に働きかけられる神はその事柄に力を与えて、事を実際に行うことができるようにして下さいます。神は時に非常に能動的であり、活動的です。その神さまに働きかけられることを通して、神の教会の中で、私という器が清められて、練られ、そして砕かれて、主のなさりたいことの器として整えられていくことを、今週も主にあって期待しましょう。