東埼玉バプテスト教会




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『死ぬなら一人で死ね!』



「人の血を流すものは、人に血を流される、神が自分のかたちに人を造られたゆえに。」創世記9:6
「悪しき者の言葉は、人の血を流そうとうかがう、正しい人の口は人を救う。」箴言12:6

今年5月下旬に起きた川崎市多摩区の殺傷事件をめぐっては、容疑者が児童たちを襲った直後に自殺したことから、無関係な人を道連れにした「拡大自殺」だったとの見方が出ていた。繰り返される孤立感や絶望感を深めた末の無差別殺傷事件。今回の事件について精神科医の片田珠美さんは「人を殺したいという願望よりも、最初にあったのは非常に強い自殺願望だったのではないか。人生に強い不満を抱く一方、不遇を世間や他人のせいにする他責的傾向があったのでは」と推測する。

一方、一部のメディアやインターネット上では「死ぬなら一人で死ね!」という非難も多数紹介されていた。「子どもを持つ親や家庭・社会であればそのような非難も当然だ」等と擁護する声も多く上がった。しかし一方で、生活困窮者支援等を行う「NPO法人ほっとプラス」代表理事の藤田孝典さんは「次の凶行を生まないためにも、『一人で死ぬべきだ』という非難は控えてほしい」と発信している。藤田さんは「格差が広がり、『自分は価値がない存在』と感じている人が大勢いる。ネットでのこうしたメッセージが社会に恨みを募らせる人々をさらに追い詰める可能性がある。悩んでいる人間が相談や支援を受けやすい社会をつくる努力を続けていく必要がある」と意図を説明した。

聖書的に考えれば、どうだろうか。そもそも自殺であれ、他殺であれ、神はご自分の似姿に造られた人間が殺すこと、殺されることを願っていない。殺人だけではなく、殺意についても、神は悲しまれ、憤られる。神の作品であり、ご自分の尊い愛の対象である人間同士が争うことさえ、神は願っていない。そう考えると、犯人に対して、「死ぬなら一人で死んでくれ」と願うのではなく、「人を殺さないでくれ」と願うべきだろう。さらに言えば、「あなたも死なないで」と願うべきではないだろうか。

私たちが利用する路線でも、都会でも、人身事故で電車がよく止まる。そのたびに、乗客の多くの人たちは、いらつき、あるいは溜息をつきながら、「電車で死ぬなよ。迷惑にならないところで死ね」と言っている。以前、中村光秀先生(綾バプテスト教会副牧師)がその感覚・空気に警鐘を鳴らしていた。私たち信仰者は「死なないでくれ」「あなたには死んでほしくなかった」と願い祈る者でありたいと思うが、どうだろうか。

テレビのバラエティ番組でも、日常会話でも、平然と「死ね」という言葉を使う人がいる。芸能人が笑いながら「いっぺん死んでこい」と言う。恐ろしくないか。繰り返すが、「一人で死んでくれ」というのは、神の作品である人間の死を願うこと。それは他者の死を願った容疑者の思考と、そんなに変わらない気がするが、どうだろうか。

目に見える部分や行いだけでではなく、思考・感情や言葉においても、一人の人の命を尊ぼう。神がその命を造られ、その人にその命を与え、生かされているのだから。生きている限り、生かされている限り、そこには無限の可能性があるのだから。